遙か5夢

慎太郎とその妻
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19.こころのおと







寒々しい風景が一変、若草繁り、色とりどりの開花賑わうとある日の事である。
この日、いつものように京の息子、源平を連れて視察へ出かけた慎太郎であったのだが、しばらくして源平が物言いたげに見つめてくるのに気が付いた。
ちらりちらりと顔色を窺う年相応の仕草に慎太郎は密かに笑う。
姉の教育の賜物か、年よりもずっと大人びている源平のおぼこい姿に酷く安心した。笑色を飲み込んで問いかける。
それに、源平は同じように問いで返した。ぽつりぽつりと、確かめるような言葉が淡々と宙へ羅列する。


「今日はよい天気ですね」
「ああ、日本晴れだな」
「このような日はいかがですか」
「春になったので心地いいと思うが」
「何かしたいことなどは…ありませんか」
「…そういえば最近刀の手入れをしていないな。時間があれば手入れでも」
「このようによい天気なのに…ですか?例えばその、花見にでも出るとか」
「いや、そういった時間の使い方は不得手なんだ」
「………」


毎日顔を合わせている家族という距離の二人である。世間話と呼ぶにも微妙な会話がぎこちなく二人の間を滑って行く。慎太郎の眉間に少しの皺が寄った。
この会話に何の意図があるのだろうかと源平を覗えば、先ほどとは打って変わり、その顔は“不服”の二文字を体現している。
餅のように膨れた頬が何よりの証拠であった。ぶつぶつと何かを口にしているのだが上手く聞き取れない。
「……殿は勘違いしている…」ぶつぶつ文句の中、微か聞こえた名前は妻の弟のもの。
いずれにせよ慎太郎には源平の一連の行動の意図するところが分からず、首を捻って考えたのだが、何をどうしても源平の不満を煽るばかりで。
とうとう焦れを我慢できなくなったのは源平の方であった。目的の邸を指差す慎太郎の言葉を遮り、童は叫ぶ。


「今日は慎太郎さんはお休み下さい!ここより先の視察は私一人で十分ですから!」


そう言い放つや否や、源平は慎太郎の手に抱える全て奪って走り去っていってしまった。
衝動的な彼の行動に追いつけない思考は、小さくなっていく甥の背を見送った。
あっという間に小さくなる源平の転ぶ姿を遠く遠くに捉えながら、慎太郎は成す術なくとぼとぼと家路につく事になったのである。



それからの慎太郎の記憶は朧だった。突然の帰宅に驚く妻の顔。手に握られた藁縄。視覚的な記憶は脳を掠めていたが、それが思考に留まる事はない。
慎太郎は混乱冷めやらぬまま、源平に言われた他愛もない言葉を二三、妻に話した。
いきさつを説明すればするほど、くすくす笑い出す妻に、慎太郎の困惑は深まる一方である。
「一体どういう事です?」問いから逃げるように奥へ引っ込んだ妻。
しかしすぐに戻ってきた彼女の手に抱えられているのは小さな竹かご、そして肩には領民から贈られたという薄編みの襟巻がかけられている。
その対にと贈られた、慎太郎用の襟巻を差出して微笑む。
「春を摘みに出かけませんか」と。
疑問はひとつも解決されず、混乱は深まる一方であったが、こんな状況でも彼女の誘い言葉は聞き逃さないらしい。するり忍び込んだ誘いの言葉には、反射的に是を答えていた。


---------------


「幼い頃、野畑を走り回ってはよく父に叱られたものです」


ぷちり一つ。ぷちりとまた一つ。道端の春草を摘みてかごへと運ぶ動きは、緩慢であるのに無駄がない。
草を摘み取る爪先が緑に染まっていく。律儀に、悪く言えば効率の悪い緩慢な動作。なぜこのような戯れに誘われただろうか。どれだけ空気に目を凝らしても慎太郎に答えは見つけられない。
源平の挙動とこの外出と、一体どんな意味があるのかと問うたのだが、明確な回答を避けられてしまった。
曖昧な笑み。こういう表情をする時のリンをどれほど問いただしても自分の求める回答が出ない事を慎太郎は知っている。


「(自分で導き出せ…という事ですか)」


慎太郎は仕方なく空気を読む事に徹する事とした。


ヨモギ、ツクシといった分かりやすい食用草から、名を知らぬものまで、さまざまある野草を見極めて摘んでいるらしい妻の動きに、気付けば慎太郎は見入っていた。
領地でも端の方、隣村との境目に近いこの道は農道というより自然現象にて生じたあぜ道であり、人の気配はない。
名も知らぬ若緑の草が生えている以外に、それらしい春の香りも感じられない寂しい場所であった。
もっと賑やかな場所もあるだろうと提案しても、リンはここで良いのだと言う。


「もう少し北へ行けば桜の集まっているところがあるようですが、行きませんか」
「…さくら。ああでも、こちらでいいんです。桜はもう、十分見ていますから」


先程からこのようなやりとりの繰り返しである。丸まり、伸び、と上下運動を繰り返す妻の小さな背を慎太郎は見つめていた。
草を摘み取る度にふわりと揺れる襟巻、足元を覗き込んだ時にちらりと誘ううなじの細さに、思わず目が行く。小さく息を飲んだ。

記憶を馳せる。出会った頃の妻は不健康な細さであった。それは今でも大差なく、鍛え上げたこの手がかの首を掴んだなら、ぷちり、と春草のように摘み取れてしまいそうだった。
ぞっとする夢想に立ち尽くす。
妻と慎太郎と、一歩程の間合いしか空いていないはずである。そうであるというのに、慎太郎は言いようのない距離を感じていた。
ぷち、ぷち。時を知らせる妻の草摘音が耳に届く。慎太郎ははっとして、静かに首を振った。無益な思考だと思ったからだ。

時は止まらない。
時を止めまいと動いているのは他の誰でもない、何より自分であった。
そう、結論付けて、慎太郎は一人自傷に歪む笑顔を噛み殺す。「勝手だ」と。


「源平殿はあなたと正反対ですね」


不意に声がかけられ、しゃがんでいた小さな背が大きく伸びた。こちらを振り返る妻の髪が渦を巻き、襟巻が遅れてそれを追うのを目で追う。好ましい顔と目があった。
見慣れているはずの妻の容姿に見惚れた純情を咳払いで隠し、迎え撃つ。目の前の花は人の気も知らずにゆらゆら揺れて愛想を振りまいた。
可憐を装い放たれる芳香に酔わされぬよう気を払う。遅くなったが疑問を口にした。「何がですか」と。
たどたどしい音が、霞を震わせた。


「…私が一番喜ぶことを、あなただけはご自覚ない」


答えのようで答えでないそれに困惑したが、同時に心臓を掴まれたような居心地の悪さを感じた。
直接的でない、けれども聞き流せない謎の楔が慎太郎の胸に刺さり、奇妙な間合いを発生させる。
向き合っていたリンは少し体を逸らした。
責めるような言葉を口にしながら、慎太郎の反応に怯えているようだった。
ゆるりと伏せられた長い睫が影を作る。ちらちらと揺れるそこに涙はないが、口端の笑みに力はない。
諦めに似た寂しい笑顔。
手は思考より先にリンの肩へと伸びていた。線の細い両丘、掴む肩と共に巻き込んだ髪がきしりと鳴き、その侘しさに歪んだのは慎太郎の方だった。


「そんな顔をしないでください。リンまで泣いてしまいそうです」
「…あなたは俺を弄ぶのが―――そんなに、楽しいのか」
「あなたが優しいから、それだけですよ」


彼女が見ているものを理解したいと願えども、一向にその景色を共有する事が出来ない。
彼女の目から映る景色が紡ぐ言葉は、慎太郎の世界にはどこにも当てはめられなかったからだ。抽象的な言葉の応酬。それは、いつかの高杉との会話を思い出させた。

「あなたが優しいから」同じ言葉を高杉に言われた。記憶の反芻に目が眩む。
とうとう彼女の心に触れられた。
そう何度確信しても宙を掻き取るばかりの日々。この日もするりと避けられている感覚があった。
思いきり引き寄せて抱きしめたくとも、己の間合いをいとも容易く抜け出して逃げてしまう小さな背中。
こちらへ、どうか。両手を空けて誘うのに、一向に腕に落ちようとしない無邪気な舞に誘われる事は嫌いではなかった。
それでも、ただ、もどかしい。
こんなにも近くにあるのに心を通わす事が出来ない事実という二文字が、慎太郎に深く突き刺さるのだ。

源平ならば分かるだなどと。
我ら夫婦よりも他人が理解出来るだなどと。


「…私もあなたも、素直ではありませんから」
「源平のように駄々をこねろと…?」
「いいえ、ただ、伝えればいいだけなのです。頭で考える前に、こころで、感じた事を」


それが出来れば苦労などないのでしょうが。小さく笑うリンの声に含まれていたのは“諦め”の音色だ。笑顔に滲ませていたものと全く同じ色。

やるせなさだけが慎太郎の胸に広がっていく。
弄ぶような言い回しがリンにとっての迷いの証であるというのならば、高杉が言うように己が鬼となるしかないのだろう、慎太郎は唇を噛んだ。
分かっていながらも行動に移せないのはなぜだろう、淀みが渦を成す。ぐうるり、ぐうるり。闇を生じて春野を飲み込んでいった。

「慎太郎さん」リンの声に引き戻される。まともな相槌も返せぬまま彼女の目を見れば、綺麗な軌跡がそこにはあった。リンは、笑っていた。
一度だけですよ。そう前置いて、言葉が紡がれる。


「艶やかな花もない。新緑の遊び道もない。寂しい場所ここは、風が吹くだけ。…こんな場所でも、あなたがいます。あなたがいるから、私は春草を摘むのです」


それって、尊いと思いませんか。言葉尻は、泣きそうな声となっていた。
縋るような声に、彼女の言葉の意図を読み間違えたくない一心で喉が震える。
きっとこれは彼女最大の譲歩なのだと理解した。本音を言えない女の精一杯の比喩で隠した―――本音の種。
間違えてはいけないのだと、遠くで誰かが叫んでいる。
答えを探して時間が過ぎていく。とうとう漏れた言葉は苦悩の果てに零れてしまった言葉の欠片だった。


「……難しい、ですね」


あなたの言う言葉を正しく拾うには。

その言葉の続きは音に出来なかった。
続きを発する前に届いてしまった、妻の息を飲む音。
慎太郎には妻と心を通わせてられている自信が無かった。
その一瞬の迷いがぴたりと口を閉ざさせたのだ。
みるみる内に青ざめて行く妻の顔を見て、間違って伝わっている事に気付けども、閉ざされた口は気安く言葉を話させない。

その沈黙が全てを決定づけたように、景色が恐ろしい速さで変わってしまった。
青い空に霞の空気、遠い山々の若草と桜色、肌を撫でる優しい温度は春風。
華やかで艶やかで、長き冬の終わりを告げる“誰しもに愛される春”がそこにあった。

リンが告げた「慎太郎との尊い春」が死んだのだ。

間違えたのだと慎太郎は気付いた。
ひとつ前に戻りたくとも時間を戻す事は彼には出来ない。不器用な性分は彼女を強引に振り向かせる事さえ躊躇った。


「(こんなものは優しさなどではない…ただ臆病なだけだ)」


ぷつり、ぷつり。
春草摘みの刻は再開される。
今更、待てと手を伸ばしても、もう誰もが慎太郎を振り返らなかった。
自業自得の無力感の中で、唯一彼に手を差し述べるは夜明けの光のみ。

あぜ道でもいいだなどとは、きっと慎太郎は言えなかった。例え間違えなくとも、正解を知っていたとしても、きっとそれを選べなかったと、蔑むように誰かが言う。


「……さあ、そろそろ帰りましょう。お浸しでも作って源平殿に持たせてあげようかと思うのです」
「………そうですね。それがいい」
「そんなに気落ちせずとも、慎太郎さんの分はちゃんと分けますよ」


空疎な会話が虚しく飛び交い、それは次第に力を無くして地に落ちた。
後悔と喪失が受け止めきれず、心を滑り落ちていく中、慎太郎は妻の足を見ていた。
じゃり、じゃりと踏み潰されるそれは、先程の己の言葉か、それともただのあぜ道の砂利か。
答えも出ぬまま岐路に付くが、春の陽気は無理やりに思考を奪い去っていく。
その心地は諦めに良く似ていた。

揺れる菜の花、舞う桜。
若葉の香りに柔らかい陽の光―――春風は優しく撫でるように妻の髪を触っていく。
“誰しもに愛される春”は分かりやすい形で美しい景色を慎太郎に見せつけ、守りたいと強く思わせた。
それがリンにとって慈悲のない言葉だと男はあと一歩のところで気付かない。


「…本当は夏が一番なのです」


春に取り込まれていく慎太郎に気付き、やるせなく発せられた妻の棘。
それが、今できる彼女の精一杯であった。


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